芹沢俊介さんと語る
 

~ 子どもをめぐる政治 ~

 
芹沢 俊介(せりざわ・しゅんすけ)さん
1942年東京生まれ。1965年上智大学経済学部卒業。文芸・教育・家族など幅広い分野の評論を行う。著書に『母という暴力』『ついていく父親』『家族という暴力』『現代子ども暴力論』(春秋社)、『経験としての死』『引きこもるという情熱』『《宮崎勤》を探して』(雲母書房)ほか多数。
 

 

 【対 談】子どもをめぐる政治
 
安倍政権の教育基本法「改正」によって、子どもはさらに本音を言えなくなります。私は、痛ましい事件の加害者、被害者とともに、思春期外来で接する子どもの生きがたさを思うと、子どもに国を愛せという前に、まず国は子どもを愛せと言いたい。スウェーデンの社会思想家エレン・ケイは「20世紀は子どもの世紀」と言いましたが、今、日本で子どもは権利の主体にはならず、むき出しで不安にさらされています。長年、子どもや家族について評論をなさっている芹沢俊介さんと、子どもについて正面から語りました。
 
阿部 家族や子どもについて書かれるようになったきっかけは、どんなことですか。
 ■親が親で、子が子でいられる 時間が少なくなっている■
 
芹沢 子どもや家族のことを考え始めて40年が経ちます。きっかけは、所帯を持って子どもが生まれたことです。妻や子どもという他者と一緒に暮らすなかで、自分が思い描いていた家族と現実の家族生活との違いに直面したんです。それを機に、夫婦や親子がよりよい関係を築いていくにはどうしたらよいか真剣に考えるようになりました。

阿部 私の大学の恩師、小林登さん(東大名誉教授・国立小児病院名誉院長)は優れた小児科医で、「子どもは未来である」と言った人です。私たち医局の仲間には、「子どもから、『ねぇ、先生遊ぼう』と言ってもらえたら大したもの」と話していました。小児科病棟という肉体的にも精神的にもギリギリの状態に置かれた子どもと、他者であり、大人であり、医師である自分たちが、どういう関係を作れるかを問われていたのでしょう。今の親と子の関係について考えるとき、長時間労働の影響もあるのですが、親子で一緒にいる時間が少なくなっている、親が親でいられず子が子でいられないという問題があります。

芹沢 そうですね。物理的にいないということと、いるのにいないという問題があり、殺人事件の加害者になった子どもには、学校や家庭で、親や教師たちが「いるのにいない」かのように接していたという共通点があります。人間というのは「在る(being)」という存在感覚のベースの上に「する(doing)」が乗っている、というウィニコットの考え方に立つと、戦後、大人の子どもへの関わりが「在る」をないがしろにした「する」「させる」の体制だったことが見えてきます。常に「させる」だったことの弊害が今くっきりとでているとも考えることができます。

 

 ■「在る」より先に「させる」 子どもへの関わり方が増えた■
 
「在る」以前に、「させる」の関わりが増えれば増えるほど「在る」という存在感覚が作られなくなる。親子関係において、自分が自分であるという同一性の感覚を子どもが獲得するプロセスに立ち合い、支えるのが親の課題です。それには子どもの傍らに居続けなければなりません。いつまでそれが必要かは子どもが決めること。子どもが「もういいよ」と言ったときには、親は捨てられるのではなく子どものなかに内在化され、子どもは自分は自分として生きていけるようになります。しかし、今、親子は、子どもに早く何かをできるように「させる」という関わりが多くなってしまいました。

阿部 教育基本法も「させる」関わりで、態度を評価するものです。小児科医になって30年ほど経ちますが、この頃感じるのは、いわゆる「親ばか」がいなくなったということ。本当に愛されたら子は幸せですが、無条件に子どもの存在を肯定し、大事に思うことのできない親と、親に気に入られ評価されて初めて存在が認められると感じている子どもが増えました。引きこもったり、不登校になったり、拒食症になったりするのも、自分という存在を是正し体感するプロセスです。

芹沢 1997年では2万5000人前後だった自殺者が、98年に3万人を超え、以降3万人台という高い状態のまま今日に至っています。98年に7000人も増えたうちの大部分は中高年齢層で、リストラ、失業、借金、仕事にかかりきりで家庭に居場所がなかったことなどの影響だと考えられます。未成年の自殺が中高年ほど増えていないのは、リストカット、拒食・過食などの摂食障害やひきこもるという待避線を何とかこしらえて死なずにいるからでしょう。中高年齢層は、そういう待避線がないわけです。

 

 ■「在る」実感が得られない子ども 臓器移植で価値付けしてはならない■
 
阿部 追い詰められた子どもたちのことを考えると、何としても止めなければならないのが、子どもからの臓器移植です。臓器移植法の改正法案は与党2案が上程され、継続審議になっているのです。脳死を人の死とするA案は論外としても、いま一つのB案は、臓器提供の意思表示が可能な年齢を15歳以上から12歳に引き下げる内容です。子どもが、自分は生きていていいと思えない状態に追いやられているなかで、自分の価値を外側から枠づけするためにも、臓器提供を考えるようになるのではないでしょうか。なぜ子どもたちはリストカットするのか、過食嘔吐をするのか、引きこもるのかを大人はまず考えてみるべきです。子どもは、自分の死の決定を先延ばしする権利がある存在。「在る」実感が得られない子どもを臓器提供「させる」ことで評価する仕組みを作ってはいけません。

芹沢 恐ろしいことですね。国の「させる」体制が強化されていくのを阻む有効な砦の一つは家庭だと思うのですが、弱体化されています。

阿部 子どもが脳死状態になった親御さんのなかには、臓器移植をして誰かの役に立ったと思うことで自分が癒されたい、子どもの死を受けとめがたいから、誰かのなかで生きていると思いたい、という方もいます。逆に死んでいくその子は終始、そこに「在る」ということを認められなかったのかなと悲しくなります。そんな親御さんの弱さにつけ込んで、人の生き死にに政治が関与するのは傲慢なこと。政治は、力の弱い者を守って「在る」ことを実現するの目的のはずなのに、今の政治は力の弱い者に「させる」、弱い者から「殺す」「奪う」ものです。教育基本法「改正」、共謀罪法案など、国会には「このように在らねば認めない」ところに押し込めるような法律ばかり出されて気持ちが滅入るけれど、子どもも大人も「在る」ことがまず認められる未来を政治が選択しなければなりません。

芹沢 そこから光が見えるような気がしますね。

阿部 地元の駅頭で演説をしていると、かつて拒食症でやせ細っていた子がはち切れんばかりに元気になって「せんせー」って声をかけてくれたりして、捨てたものじゃないかと思ったりします。2007年も頑張ります。

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(「阿部とも子News ともことかえる通信No.26」(2007年1月号)に掲載)