イラク紀行(2002.12.16〜12.22)
阿部知子
12/16
11:00 成田発KLMオランダ航空862便にてアムステルダムへ(15:00着)
19:15 アムステルダム発→ヨルダンの首都アンマンへ
12/17
0:55 アンマン空港着
夜中にもかかわらず、在ヨルダン日本大使館の1等書記官上田氏とうら若き女性外交官藤井さんが出迎えてくれる(感謝)。
入国に約1時間を要す。
在アンマンの旅行代理店員と市内のホテル(ロイヤルジョルダン)へ。
4つ星ホテルの由、豪華。
BBCニュースを見て入浴。
短時間の仮眠の後、アンマン市内のローマ劇場や遺跡の丘を見学し、昼過ぎ再びアンマン空港へ。
15:45 アンマン発→バグダッドへ(18:30着)
当初陸路で10時間以上との予定であったが、バグダッド行きの航空路が利用出来て幸い。
在バグダッドの旅行代理店員並びにイラク国会の事務官が出迎えてくれて、入国手続きをするも入国まで約3時間を要す。
とりわけカメラ・ビデオ・モバイルなどのチェックと称して約2時間留め置かれ、最後には10ドルのワイロを要求される。
バスにて、夜10時過ぎにくたびれ果てて市内のアルラシードホテル(5つ星)に到着。
治安の関係で、大半の外国人がこのホテルを使う由(あのブッシュ大統領の顔が玄関入口の床にあった)。
バスの窓から見たバグダッド市内は広い通路とゆとりある街並みで往時の豊かさがしのばれる。
しかし、途中チグリス川にかかる橋をはじめ湾岸戦争時の空爆の被害後に再建されたという箇所も多数あり、またホテルも古い造りでかつては最高級ホテルであったことを思わせるものの室内のアメニティーは古く、ホテル常備のシャンプー類はなし、石鹸のみ。
経済制裁の影響であろうか? 日本からここまで到着するのに丸2日、やっぱり遠い。
取りあえず、日本の外務省から紹介を受けていた在イラク臨時大使の河野氏に連絡し、翌朝の会見のアポを取る。
目下、日本の在イラク大使館は通常ヨルダンに駐在し、2〜3日交代でイラクのバグダッド市内へ勤務する状態とのこと。
12/19
8:30〜 在イラク大使館にて、河野臨時代理大使よりイラク情勢について短いブリーフィング。
11/27からの国連による査察(国連決議1441)の要員105名も併せて現在バグダッド市内に約1000名の国連職員が駐在の由。
またこれから会見予定の国民会議議長のDr.ハンマーディ氏はイラク国内でNo4の重要な地位にある外務大臣の経験者などの情報を得る。
国内の統治に関しては、国民会議(国会)よりもむしろサダム・フセインを中心に革命指導評議会が実権を担う由。
また、たまたまであるが現在日本からの他の市民団体がイラクを訪問中とのこと、彼らが多数のメディアを同行している由。
イラクのクルド人への迫害も含めて主にイラク北部ではPeace Winds Japanが活動し、この間12年間の経済制裁に対しては現在まで6ヶ国からのNGO団体が犠牲者150万人ともいわれる実態調査も含めて活動中と説明を受ける。
私共の今回のイラク訪問の目的を「経済制裁や劣化ウラン弾によるといわれる被害の状況を明らかにするとともに、現下の査察が平和裡に行なわれ、アメリカによるイラク攻撃を行なわせないため」と伝える。
大使からは@ 写真撮影は必ず許可を得ること(カメラに厳しい)A 水はミネラルウォーターをB 夜間の外出禁止C 移動は日中に(この間、他国の大使館員の死亡事故ありと)との滞在中の基本注意を受ける。
このことは後に如何に重要であるか判明することとなる。
また国連の査察広報官の植木氏との会見のアレンジをお願いする。
9:30〜 国民会議議長ハンマーディ氏以下、国会の各種委員会の委員長15名と会見、約2時間にわたり会談。
日本側からの来訪者が各々の訪問の思いを伝え、ハンマーディ議長からは12年間の経済制裁下での厳しい生活実態と復興について話される。
氏は、査察に関しては既に1998年までに95%が完了している(これまで276回のミッションが計12056回にわたり査察を実施し総計3845名の査察官が3392ヶ所を査察し、今も665ヶ所が恒常的な査察下にある)との認識に加え、かつての査察ではスパイ行為もあったこと、今回の査察が公正に行なわれることを望むが、アメリカはそれでも攻撃をしかけるであろう事への危惧が語られた。
また劣化ウラン弾による健康被害は、アメリカのグリーンピースをはじめ諸外国のNGOも認めるところであるし、こうした被害に加えて経済制裁によりこれまで171万人以上の死亡が累積しており、国連による合法的な手続きの遵守により早急に制裁が解かれることが不可欠と語られた。
以下訪問団からは、特に劣化ウラン弾問題に関していくつかの病院の訪問と保健大臣との会見を要請し、当日の夕刻に最速に会えることとなった。
午後〜 アメリエシェルター見学
湾岸戦争時(1991年2月13日)にアメリカが住民避難中のシェルターを攻撃し、多くの子ども達を含む408名の死者を含む多数の犠牲者が出たとされる場所で当時のままに保存されている。
使用された核兵器の種類は明らかではないが、広島・長崎と同様の黒こげの遺体の写真や被害者の惨状がいわゆるピンポイント爆弾の被害を物語る。
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夕刻6時過ぎ〜 保健大臣オーミド・ミドハド・ムバラーク氏と会見
医師とのことで好んで英語を使う、ややエリート臭の目立つ人物。
経済制裁以前のイラクは医学的にも非常に進んでおり、アラブ諸国の中心的な役割を担っていたが、この間の12年間で、新生児死亡は25人/1000人から108人/1000人に、未熟児(2500g以下)の出生率は4.5%から26.5%に、5才以下の小児の死亡数も550人/月から7500人/月に増加し、すでに根絶していたポリオをはじめとする感染症、消化管感染による死亡も再燃していることを述べた。
こうしたことを集計すると、171万人の犠牲者が生まれたことになるとの認識を強調し、とりわけ国連のオイルフォーフード計画では2500万人の食糧供給をはじめ生活必需の49.6%しか満たし得ず、国連安保理決議661に基づく制約によって治療薬にも事欠くことから死亡率も6〜20倍に上昇している由。
また劣化ウラン弾に関しては、各国の国際的な調査団が放射性物質や化学物質の被害調査を実施し(UNEP・WHO・UNOP・UNICEF etc)、昨年秋にもWHOとの共同研究の予定であったが、これも米国の介入によって立ち消え状態である。
データーに客観的に示されることすらが妨害されている現状への怒りを表明した。
そして翌日希望の訪問先である国立放射線核医学病院や小児病院への連絡を担当秘書官に指示してくれた。
8:00PM
保健大臣との会見が長引いたため、赤新月社(日本の赤十字にあたる)への訪問は夕刻の8時近くになったが、代表のホサーム・ロアドゥーン氏をはじめ数名の担当者が待っていてくれた。
ここでもやはり子ども達の深刻な栄養障害や健康被害が語られており、とりわけ抗生物質なども含めた治療薬の不足について日本からの支援をあおぎたいと語られた。
12/19
午前8:30〜10:00 バグダッド市内のバーブ・サイフ小学校訪問
昨年からイスラムの伝統的教育重視のために男女別学に分けられたという女子小学校で、朝礼から1時間目の授業まで見学。
朝礼は米国への批判と、これに対しサダム・フセインとイラクが闘うことの重要性を説く校長先生の話にはじまり、イスラムの詩の朗詠にいたるまで延々と続く。
子ども達はその間約30分整列状態であるが、少しずつ列を乱す子や朝礼に遅れて門の外で待機の子どもの姿も30人内外見られる。
日本の小学校よりは子ども達が活発、授業はどこの教室の見学に入っても良いとのことで、私達の仲間は高学年の室ではツルの折り方を教えたりした。
英語は小学校5年生から習うとのこと。
11:00〜 バグダッド市内の国連の仮事務所
査察広報官の植木氏から約1時間に亘り査察状況を伺う。
米国からは査察団の力量を十分評価しないという発言のある中、国連に籍をおく職員としてきちんとした査察を行なう努力を最大限追及している由。
今のところイラクは協力的。
ただし査察の結果を判断するのは国連安保理なので、ここでの政治的判断が実際には大きく影響するのも事実であると。
応対の柔らかな優秀な国連マンである植木氏にも、現在の国連内のパワーポリティックの中で働くことに矛盾を感じているように見受けられた。
取りあえずイラク国内では国連の査察は粛々と行なわれている。
13:00 国立放射線核医学病院見学
イラク国内での重症の癌患者の95%が集まるというセンター病院(150床)、診断から化学療法や放射線治療まで病棟と外来をフル稼働させているが、放射線機器の老朽化と抗癌薬(化学療法の十分な実施)の不足によって、増加する患者、治療にとても追いつかないと院長Dr.タハ・ハシード氏が苦労を語る。
院長は、私達を病棟へ案内する途中に、病院内で泣いている少女の患者に目を留めて、自らベッドサイドへ出向き一生懸命に彼女に何かを語っていた。
その姿はとても温かな人間性を感じさせた。
15:00 バグダッド大学医学部にてDr.フサーム・アル・ジュルマクリー教授と会見。
11月下旬に来日され、国会内でも講演された方でもあり、穏やかで誠実な医学者の印象が強い。
イラクが近年中東のアラブ諸国の医学教育の中心地としてたくさんの留学生を受け入れてきたこと等を話される。
17:00 サダム教育中央小児病院見学
約60人の小児癌患者が入院している病棟を見学。
病棟案内を待つ間、外来を受診する親子と写真撮影。
当初の到着時間より2時間近く遅れたにもかかわらず、若い病棟医が熱心に一室一室案内してくれる。
本来6人部屋に8人収容する状態が続いており、毎週4〜6名の新規入院があるとのこと。
明らかに癌発生は増加しており、また治療薬が初期治療を行なうにも再発防止をするにも圧倒的に不足しており、8割以上が亡くなるのが非常につらいと説明してくれる。
各病室の入院患者に回復を祈って折り鶴を手渡す。
余命あと1週間と言われ力なくベッドに横たわっていた少女が鶴を見て笑ってくれた時、添う母親が涙していた。
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以上で、イラクの公式訪問はその前半を終わり、第1班8名は翌日20日に帰国の途につき、残る第2班8名は湾岸戦争時の激戦地のバスラ方面に向かうこととなる。
なお、この訪問団にはアメリカからダマシオ・ロペス氏が合流したが、彼はニューメキシコ州サッコロ市の放射能兵器の試射場周辺の被害を告発しているNGOの活動家として劣化ウラン弾の問題をウラン236とプルトニウムによる汚染の可能性も含めて指摘していた。
ちなみに劣化ウランとは「ウラン235の取り出された」と言う意味で使用されるが、依然として0.2〜0.3%のウラン235を含むばかりか残り99.7%を占めるウラン238も放射能を持つ。
即ち重金属としての化学的毒性とアルファ放射能としての複合的毒性を持つとされる。
コソボ・ボスニア従軍兵士や湾岸戦争時の兵士の被爆を含めて、ヨーロッパ(ドイツ、オランダなど)のNGO団体やアメリカのグリーンピースからも種々の研究調査があるが、イラクの現状についてまず早急な調査と十分な治療が第一であると確信した。
また、この訪問によって得たものは、米軍の攻撃やこれまでの米国のやり方へのイラク内の不安や批判は強いものの、査察を受け入れて何とか平和的な解決へ結び付けようとするギリギリの努力も感じられた。
また、日々の生活を生きる人々のバイタリティ、軍国教育の強まる中でも子ども達の活気ある様子、そしてひたすらに治療に打ち込む医師達など、イラク国民の実態にふれることが出来たのが最も印象に残った。
12月20日からの帰路は、朝8時に第1班7名でホテルを出発、約8時間かけてバグダッドからアンマンへと移動する計画で、陸路でイラク国境を越えるというロマンまでついていたが、実際にはありとあらゆるアクシデントが起こり、これまで経験したことのないような悲惨の連続となる。
バクダッド・アンマン間は立派な幅広の国道が通り、だだっ広い所をただ一直線。
しかし出発後1時間半ほど走ったところで突然にバスがエンスト、約1時間修理にかかるもビクとも動かず、以降3時間近く次の乗り換え車が来ることを待つこととなった。
この間、バスの車内でガイドの30才代のトルコ人青年と雑談、彼はバクダッド大学で農業土木を専攻したが、この間の経済制裁で農作物の輸出(とりわけパームやし)が出来ないため、農業関係の仕事を諦めて現在ガイドをしている由。
ガイドとしての仕事は、イラクがメソポタミア文明の遺跡やイスラム教の聖地関連の遺跡が多いので、国外からの来訪者もあり比較的途絶えることがないので比較的安定した収入がある由。
彼からは12年前の湾岸戦争の時の被災状況なども聞くことが出来て、臨時インタビューは大成功。
しかし、この後は次なる地獄の国境越え序曲が始まる。
乗り換え用に到着したのは2台の乗用車と若いガイドの上役らしきイラク人、そして運転手1名、私達8名を加え、これで一行は計11名となり、5〜6名ずつぎちぎちに乗用車に分乗してまたひたすら陸走すること3時間余り。
トイレ休憩のために小さな湖の側に停車して休憩した折に、後車から前車にメンバーが移動。
その時彼が肩にカメラをかけており、これが秘密警察に通報されてパトカーらしい車が2台私達のところに駆けつける。
皆の荷物をチェックするが、それだけでは無罪放免とならず、警察署まで全員移動(連行)を命じられる。
通訳の田波さんが一生懸命事情を話してくれるも埒があかず、最後の手段として私と山内議員の公用パスポートを提示すると、すっと解放してくれた。
日が落ち始めた頃、国境に向けて移動再開。
必死の運転ではあるが国境は遠く、真っ暗な中をどんどん気温が下がり、古い車なので車の外の冷気がドアからもしんしんと伝わる。
深夜11時近くにやっと国境に到着し、寒風の中で手荷物チェック。
ここで再び山内恵子さんのモバイルが見つかってしまい、また私が預かったビデオのフィルムもチェックにひっかかって、二人して別室へ。
眠さと寒さと空腹で限界に近い体力で約1時間余り、いろいろと取り調べがあり何とかパス。
どこでも女性のチェックは厳しく、手持ちのバッグまで開けて内容を一つ一つ調べられる。
まるで往時の箱根の関所越えのよう。
真夜中の12時をまわってやっと国境越え終了し、ヨルダン側へ。
途端にひょう(ヨルダンの雪は十数年ぶりと)が降り始めてこれで完全にアウト。
下水道の整わず、坂の多い道路は水浸し状態となり、車は思うように走れず、アンマン空港に到着したのは深夜2時半。
アンマン発2時15分のKLMにはもちろん乗り遅れ!ここで再び急遽深夜にもかかわらず呼び出しに応じてくれた親切なヨルダン大使館の上田氏藤井さんのお二人のお世話で、アンマン市内のホテルを探してもらって朝方4時頃にチェックイン。
本当に有り難かったです(感謝、感謝)。
20時間に及ぶ人生で最長のドライブでしたが、二度と陸路でバグダッドへ行くことは考えまいと深く心に誓いました。
写真撮影:豊田直巳さん(フォトジャーナリスト)
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