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初当選以来10年近く、地元事務所を支えてくださった山上昭太郎さんが82歳を前に亡くなられて2週間が経つ。
ご家族の縁の薄かった山上さんは、事務所の若いスタッフと社民党の仲間を家族と思い皆からもとても敬愛されて、10年以上無償で事務所に詰めてくださった。
2000年に行われた衆議院選挙ではじめて自分の地元事務所を持つことになった私にとっては、党活動の経験といい、黙々と仕事をなさるその几帳面さといい、何よりも誠実なその人柄をもって、安心して事務所をお願いできる先輩でもあった。
この数年癌を患われていたが、なぜか私の選挙となると、癌よりも山上さんの生命力が上回り?元気に連日連夜の「勤務」をこなし、必要な事務作業も万事抜かりなくチェックしてくださった。
2月中旬、急激にむくみが増強して、かかりつけの湘南鎌倉総合病院の救急を受診するまでは、週1日通院のために休む以外は土日も「出勤」されていたが、この1年余りはその体調を気遣って、秘書や社民党の後輩が朝方車でお迎えに行っていた。1年前から要介護認定も受けておられ、週に1回はデイサービスに通い、その他は事務所で定位置に座って電話での対応という「ケアプラン」?になっていた。
むくみで目が開かない状態になった時も、事務所のスタッフが病院に付き添い、とにかく入院を希望したが病床も満室でなかなか入院できなかった。いよいよ全く尿が出なくなって、私の後輩が院長を勤める湘南中央病院に入院できることになったが、その間どんなにか苦しかったことかと思う。重症さを見てとった病院からご家族への連絡の打診があった時、山上さんは自分には「家族以上の事務所の仲間がいるから」と、あえて日頃疎遠なご子息を呼ぶことを断わり、私たち皆で支えることとなった。
山上さんにそこまで信頼してもらった若いスタッフは、はりきって看病した。お亡くなりになる前夜は、都内から駆けつけたご高齢のお姉さまが付き添われ、その呼びかけに山上さんも重いまぶたを開けて、しっかりとお顔を見てとても嬉しそうになさった由。そして安らかに旅立たれた。
亡くなられた2月19日、丁度国会では前々夜に開かれた基地問題検討委員会で普天間基地の新たな移転先候補地の提示が先送りとなり、あらゆる憶測が飛び交っていた。メディア報道で、社民党阿部知子が候補地として九州地域等の地名を上げた云々とあれば、その地域の社民党県連や平和運動体からは国会だけでなく地元事務所にも抗議のファックスが送られてくる。こんなファックスを見たら、一体阿部知子が何をしたのかと山上さんがさぞ心配し、心を痛められただろう。いつも私の言動を案じ、見守ってくれた山上さんに余分な苦労をかけずに済んでよかったかもしれない。
でも山上さんならきっと沖縄にだけ著しい負担を押し付けている在日米軍基地のあり方をどう変えていくのか、具体的にそして真剣にともに論じていくことを望んでくれたはず。抗議のファックスはそうした論議の始まりと受け止めて、山上さんが期待してくれたようなたくましい政治家になるべく、努力を重ねたい。
阿部知子
(過去の内容は、「まぐまぐ」を利用したメールマガジンのページでご覧になれます)
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2月11日 グアム島のアンダーセン空軍基地内を視察。
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2月7日(日) NHK日曜討論に出演
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1月18日 社民党かながわ新春の集い(横浜)であいさつ
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1月16日 地元藤沢での「あべともこ新春の集い」であいさつ
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