イラク再訪(2003.8.2〜8.4)

阿部知子

 

 イラク復興支援のために「戦後」のイラクを「視察」するという役割がまわってきて、昨年の暮れに引き続いてわずか六ヶ月の間に戦前・後の双方のイラクを訪れることとなった。

 「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」という長いタイトルの法案が会期末ギリギリの7月25日参議院本会議を通過して、7月28日に約190日に及ぶ長い第156国会が終了。
それを受けるかのように、衆議院の同特別委員会は、7月31日から8月9日まで、イラク・ドバイ・アフガニスタン視察団を派遣することを既に会期終了前に決定していた。
名づけて、アメリカの中東戦争関連視察とでも言えようか。
イラクに対しては戦後の混乱と自衛隊の派遣の適否、ドバイではテロ特措法に基づく自衛隊の洋上給油活動、そしてアフガニスタンでは復興の現状をみるという前例のない委員会視察である。

 国会議員の夏の視察と言えば、通例では大名旅行と言われたり、海外視察に名を借りた物見遊山と言われたりするのだが、今回の視察団は奇しくもアメリカが次々と繰り広げる対テロ報復戦争に名を借りた軍事侵攻の跡をたどり、それへの日本の関与を見聞する旅となった。
イラクでの米兵への攻撃は日を追って数を増し、視察にも危険性が伴うものという覚悟の上である。
高村団長以下8名、アメリカの戦争を支持する者も反対する者もいる超党派議員団ではあるが、状況は既にイラクの戦後復興と自衛隊派遣の具体化にフォーカスが当てられていた。

 日本の将来にとっても「歴史の転換点」に当るという思いと共に、何をすべきか、何をしてはいけないかをしっかりと見定めたいと強く思い、視察団に参加した。

7月31日<成田発フランスへ>

 今回の視察は、空路パリ経由でヨルダンのアンマンに向い、さらに国連機に乗り換えてイラクのバグダッド(旧サダムフセイン空港)へと入るルートを取った。

 アメリカのイラク戦争に明確に反対の立場をとり続けたフランスの政府関係者との会見は何故か設定されず、日本の駐フランス大使からフランスの国内事情の説明を受けた。
せっかくの機会なので、直接にフランス側と今後のイラク復興への考え方を意見交換出来ればよかったと思う。

8月1日<フランスからヨルダンへ>

 パリ市内に一泊後、シャルルドゴール空港からヨルダン国の首都アンマンのクィーンアリア空港に飛行して、アンマン市内のホテルに一泊。
イラクはやはり距離的には遠く、ヨーロッパのいずれかの国を中継してヨルダンに到着するのに一日半はかかってしまう。

8月2日<ヨルダンからイラクへ>

 ヨルダンの国内でさらに国連機に乗り換えるために、軍と民間が共通使用しているマルカ空港へと車で移動した。

 このマルカ空港では、既に国連の緊急人道支援の一環としてWFPによる食糧支援活動に日本の自衛隊が参加しており、7月4日より航空自衛隊の空輸機C130でイタリアとの間を食料用のコンテナを積んで往復する活動の報告を受けた。

 尾翼の一部を白く塗り変えて、UN(国連)のロゴを入れたC130がマルカ空港内で作業中であったが、8月上旬には任務を終えて日本に帰国するとのこと、もしも今後イラクへの自衛隊派遣が行なわれる場合には、(国連の活動ではないので)ヨルダンとの間で自衛隊の空港利用について二国間協定が締結されるのであろうが、そのことには踏み込んだコメントはなかった。

 マルカ空港からの国連機は約30人乗りのプロペラ機で、2時間弱のフライトでバグダッドに到着。
ただし通常の乗客用ではなく、荷物専用の乗降口へ(治安管理のためにまだ全面的な空港使用の再開は行われていない)。

 空から見たイラクの大地は一面に白っぽい茶褐色で、バグダッドに近づくにつれ緑が混じる。
眼下に見える道路を走る車の数も以前とは比較にならないほど少ない。
バグダッドがチグリス・ユーフラテス川に囲まれた肥沃な地帯に位置することで築いてきた永い繁栄が、アメリカのイラク空爆という蛮行で無残に破壊されたことが空からも確認された(夕刻近くオレンジ色の沈む太陽に染まる後方の空と、前方に浮かぶ三日月という不思議な光景に、しばし歴史を超えて続く自然の営みを思った)。

 タラップから一歩降り立ったバグダッド空港は暑く、砂を含んだ熱風が四方八方から吹きつけてきた(前が見えない、息が出来ない)。
おそらく50℃内外の気温、そこに熱砂が加われば極めて過酷となる。
炎天下で警備につく米兵は言うまでもなく、水・電気・家を奪われたイラクの人々のためにも一刻も早い治安回復、生活再建こそまず第一と実感する。

 以降、5月30日にイラク担当大使に任命されたばかりの大木氏を筆頭に総員わずか8名の日本人職員で切り盛りするイラク大使館のアレンジで、バグダッド市内の視察が開始された(参考:日程表)。

 なお、ロンドン大使館からCPA(連合暫定施政当局)に臨時派遣されている参事官の奥氏は、既に6月段階から赴任しており、CPAの実務面についても詳しい情報を提供してくれた。
現在6名の日本政府職員がCPAに対しての人的協力として派遣されているとのことであるが、いわゆる占領統治機構への我が国からの人材派遣は法的にはどのように理解されるべきなのか、疑問が残る。

8月2日午後<日本の医療支援の可能性は?>

 午後には、医療施設の視察としてバグダッド大学医学部付属マンスール小児病院(240床)と旧サダム中央教育小児病院(300床?)を視察。

 いずれも病院の建物は老朽化が進んでおり(特に後者は傷みがひどい)、電力不足から冷房も止まっており、エレベーターも運転されていない。
これらの病院も略奪にあったということだが、それ以外にも市内の検査センターが略奪にあったために必要な検査が依頼できずに困っているとのこと、また電力が極めて不十分なことから、医薬品の保存の冷蔵庫などの使用も不可能で、加えて病身の子ども達が暑さで更に体力を消耗している様子が見て取れる。
両病院ともに略奪を防止するため、米軍の警備によって守られているとのことであるが、米軍の侵攻直後の混乱からは少し日を経ており、略奪を恐れ病院が軍に守られなくてはならない状況はまもなく解消するであろう。
バグダッド大学に関しては、日本とエジプトの合同医療調査団の結果をふまえて、今後は人的交流・研修・再教育のプログラムが組まれる方向という。

 イラクの人口約2400万人のうち半数が15歳以下と子どもが多く、当然産婦人科や小児科の充実が最も望まれることから、旧サダム中央教育小児病院への支援も是非実施していくべきであろう。
昨年暮れにも視察したこの病院には、奇形や小児白血病をはじめとする悪性腫瘍の患児も多く、湾岸戦争時に使用された劣化ウラン弾と健康被害との関係も検証できると思う。

 今回の訪問で、バグダッド大学医学部の小児科学教授であるジュルクマリー氏や前回の訪問の折に中央教育病院の病棟を案内してくれた若いイラク人医師にも再会できたが、戦争の被害を直接聞くための時間的余裕がなく、またの再会を約して、イラク復興のために絶望することなく頑張って欲しい旨を伝えた。
ジュルクマリー教授は気の毒なほど疲労感をにじませていたが、イラク人青年医師はNGOの招きで今秋にも日本に来ることを帰り際に私にそっと伝えてくれた。

 この他にも、イラクにはかつて1980年代にODAの円借款を利用して作られた400床規模の病院が全国に13ヶ所あり、地域の基幹病院としての機能を持っている。
最近になって最も治安の不安定なモスール地域でも診療が再開されたとのことで視察もしてみたかったが、今回は時間の制約もありバグダッド市内のみということで見送らざるを得なかった。

 建物・下水道・水・電気などが病院の運営には絶対不可欠であるが、電気は石油(火力)発電しても送電線が盗まれてしまうこともあってなかなか行き渡らず、電力に対するニーズが高かった。
こうした現状に対して、太陽光発電を早急に整備すれば事態は随分改善されるように思った。
日本からの支援としても是非検討すべきである。
それは石油資源の争奪戦の様相を呈する米国の「戦後復興支援」に対置する今一つの価値観の提示ともなり、またイラクの人々にも大変喜ばれる支援となると思う。

8月3日<国連開発プログラムによる雇用促進計画の説明と現場視察>

 国民の多くが公務員であったイラクでは、戦乱と政府の崩壊によって失業者が急増し、現在6割以上が失業状態であることからも雇用の創出は緊急の課題である。

 この朝案内されたのは、学校の修復整備と街にあふれるゴミ処理作業によって5月20日から緊急に2万人の雇用を創出した国連開発プログラムの実施現場で、爆撃を受けた小学校である。
フセイン政権がこの小学校庭に武器を放置して逃げたという理由で、付近の通学路も含めて空爆の対象となり、約70人の犠牲者を出した場所とのこと。
学校は今は夏休み中で生徒の姿はなかったが、爆撃の跡は補修されて、街路のゴミも回収されていた。
この雇用計画に従って、学校には日本で言うところの用務員さんが配備されていた。

 なお補修の折に、劣化ウラン弾が使用されたかどうかも弾痕などを集めて調べているとのことであったが、どの機関がそうした調査を担っているのかの詳しい説明はなされなかった。

 さらにここからゴミの集積場へと向かい、途中にサッカーグラウンドの整備現場なども見学(このプロジェクトの一貫)した。
行政機能が無くなってしまった時から街中にゴミが溢れ出していたので、ゴミの収集は衛生面からも重要な業務であり、また雇用面でも大いに寄与する良いプロジェクトと思った。
こうした民生部門ではやはり国連の支援活動のノウハウを活用すべきことは言うまでもない。
なお、ゴミの最終処理はCPAが担当しているとのことであった。

8月3日<イラク統治評議会メンバーとの会談へ>

 ゴミの集積場からバスで急ぎ次の会談場所へと向ったが、道路渋滞が著しく、また道路を逆走したり、歩道を走る車もあったりで(ムチャクチャ)、大幅に時間が遅れてしまった。
イラク人の交通警察官らしい人物(私服なのでよく分からない)が整理をしている場所もごく稀に見られたが、圧倒的に数が少なく、またあちらこちらで故障している車があったりで、交通網は無きに等しい。
時に米軍の装甲車も見かけたが、渋滞のひどい場所ではその数は少ない。
おまけに、この日はCPAからの給与支給日とやらで人の出も多く、車窓からも長い長い人の列が見られた。

 CPAは治安確保は言うに及ばず、ゴミの最終処理や交通整備、或いは給与の支給までを管理する、即ち占領軍が何から何まで行政機能の代替をしているのが現状である。
CPAは暫定施政局と表現されてはいるが、やはり軍隊が中心で、そのことがかえってイラクの国民生活のスムーズな回復を妨げるように思えた。

 早急にイラク国民自身の手による行政機能の確立が必要と思われた(国連決議1483に言及されるイラク暫定行政機構はいまだ実体がない。
次に訪問するイラク統治評議会がその一部とされるのみ)。

8月3日<イラク統治評議会メンバーとの会談>

 イラク統治評議会は7月13日に発足し、事実上の暫定政府となるはずのもので、旧反体制7派を含む12政党代表と国内有力者を加えて25名で構成されている。
憲法草案の起草委員会の任命の任にもあたると言われているが、この日はスンニ派のイラク独立民主党党首パチャチ氏、クルドからクルド民主党のバルザニ議長とクルド愛国党のタラバニ議長、そして女性ということで前サダム政権下で外交官として国連に赴任していたシーア派アキラ・ハシミさんと会見した。
なお、シーア派の実力者イラク・イスラム革命最高評議会のハキーム師は他の宗教者の会合に出席するとのことで、私達との会見には来られなかった。

 まずパチャチ党首から挨拶がなされた。
かつては外務大臣の経験があるが、サダム政権の成立とともに約30年前にイラクから亡命し、親米的な立場にある。
既に年齢的には80歳を超えていると言うが若々しく、人格的な評価が高いとのことで、リーダー格と見なされている由。
彼はサダム政権からの解放は極めて良いことである一方で、国連決議1483ではイラクの主権の回復と独立、また資産管理の権利が制約されており、早急に是正されるべきだとの考えを述べた。
具体的には、秋に予定されるイラク復興支援会議に先立って、各大臣の任命をはじめイラク評議会が行政機能の実質的な執行を行なうべきであると強調していた。

 またクルド人自治区からの二人の代表は、お互いにこれまでクルド内の主導権争いで対立しながらも、サダム政権崩壊後は米国主導下に何とか自分達クルド人の勢力を拡大したいという点では共通しており、日本からの支援も積極的に受け入れたい意向であった。

 会見した四人の内ただ一人の女性であるアキラ・ハシミ氏は、今秋にもユニセフによる女性や子どもへの復興支援会議が開かれることに期待を寄せて、その準備に多忙であると語っていた。

 日本側からは、自衛隊の派遣について各人の意見を求めたが、パチャチ氏をはじめ、とりわけクルドの2派からは歓迎する旨の意見が述べられたが、女性のハシミ氏はその場では発言されず、私が後に個人的に直接尋ねると「イラクにはもうこれ以上外国の軍隊は要らない」と断言していた。

 今秋までに憲法制定の起草委員会の任命も予定されていることなので、彼女には是非日本国憲法全文を送りたいと思っている。

8月3日<デ・メロ国連特別代表との会談>

 駆け足でイラク統治評議会との会談を終えて、引き続きアナン事務総長から特別代表に任命(任期4ヶ月)されて6月からバグダッド入りしているデ・メロ氏と会談した。

 デ・メロ氏は冒頭、東チモールの平和維持活動との違いに言及し、国連設立時からの加盟国であるイラクに対して、米・英という二つの国連安保理常任理事国が占領しているイラクの現状について非常に問題があることを指摘した。

 またイラク国内の治安についても、クルド自治区以外の地域ではきわめて問題が多く、アメリカの空爆開始直前に一般受刑者が釈放されて治安を悪化させている側面と、政治的な反米意識の双方が原因と述べていた。

 イラクの復興支援にかかわる国連の役割として、既に水・電気・食料・医療・学校などの分野で開始している緊急支援に加えて、民生部門のサービスを行うべくCPA統治ではないイラク自身の行政府の確立をまず第一として、それを受け皿に世界各国が支援する形態をとるべきとの考え方を示した。

 そうした前提の上に10月にも国際的復興支援会議を開催、イラク警察の設立や人権尊重のプロセスをサポートすることなどに取り組みながら、中期的には2004年の憲法制定に向けて9月の末から10月までにその方向性を定め、引き続いて選挙による国会議員の選出の取り組みへの支援を行うことを挙げていた。

 彼の指摘を待つまでもなく、イラク人自身の手になる政府の不在とCPAの占領統治はあらゆる意味で変則的であり、イラク復興にとって最大の障壁と考えられた。

8月3日<ブレマー連合暫定施政当局代表等との会談>

 この日の午後は、CPAの本部である旧サダムフセイン宮殿へと向かい、ブレマー代表はじめサンチェス軍司令官、ポーランドのベルカ国際調整評議会議長と会談した。

 現在CPAが占拠する空港近くの旧サダムフセイン宮殿は、要人達の会合に使われたという広間の緻密な漆喰の壁襖から天上のシャンデリアにいたるまでイラク文明の粋と、豊かな石油資源の双方から来る栄華をいたるところに散りばめた場所である。
空爆の当初から本部として使用する計画であったらしく、ほとんど破壊はされておらず、CPAの執務がそのまま引き続いて行われている。

 その2階の一室での会談には、まずブレマー代表が「Welcome to free Iraq」の挨拶とともに笑顔で現れた。
テキサス出身とのことで陽気でかつテキパキと、治安・経済・政治分野での現在のCPAの活動の紹介と今後の見通しを語った。

 彼によれば、この間の米軍への襲撃はティクリットとバグダッドの間でその85%が生じているが、その中心はバース党残党、サダム忠誠軍、情報部隊、海外からの援軍など様々で、現在は鎮圧されつつあるとの認識であった。

 更に、経済的にはイラクの農産品の改良や買い取りへの取り組み、雇用創出、経済改革の一環としての中央銀行の設立や、10月に新通貨を発行するなどの取り組みを考えているとのこと、そして政治的にはイラクの統治協議会の設立に始まる一連の憲法起草や選挙の実施についても述べていたが、いずれも概括的な話であった。
ちなみに農業のさかんな地域は最もサダムフセインの支配の強かった所で、実際面では抵抗も未だ残る地域である。

 また日本の自衛隊派遣については、軍隊の具体的なことはサンチェス軍司令官に尋ねて欲しいとの返事で、あくまでも自らは全体の統括官という立場を強調していた。

 次にサンチェス軍司令との会談に移ったが、彼はいかにも軍事面の中心人物らしく、かなり具体的に治安や米軍の動向を話してくれた。
彼によれば、サダムフセインの二人の息子ウダイ・クサイの死亡以降、次第に戦闘は終焉の方向に向っているが、スンニ派の中心地域であるバクバ、ティクリット、ベイジンなどバグダッドの北西部がいまだ不安定であるとのこと、また襲撃はバース党の残党の他に釈放された罪人、プロの殺し屋、お金によって雇われた人達による米兵襲撃などのケースがあり、バグダッド市内だけでも3万6千人の米軍兵士の他に4〜5千人の警察官を配置しているが全く不十分であり、イラク全土で現在3万人いる警察官を6万人に増員することが必要など治安対策強化を訴えていた。

 中谷元防衛庁長官からサンチェス司令官に対して、「日本の自衛隊に望むことは何か」という質問がなされたが、司令官からは民政・学校・医療・消防・警察などの援助は文民分野で可能であり、加えて駐留米軍は軍務警察・機械整備・水の補給・兵站・燃料補給・医療など軍が必要とする何から何までを自力でカバーしているが、このいずれかでもサポートしてもらえればありがたいが、「具体的なことは日本が決めること」との解答であった。

 またイラク軍の創設についても、訓練後軍務につけるべくまず800人の募集を開始したばかりであるが、2年後を目途に3個師団で祖国防衛軍的な軍隊を設置したいとの考えも示した。
勿論このことは、同時にイラク統治評議会の中で国防省の形態を決めることとも関連しながら具体化されるとのこと。

 一方大量破壊兵器については、米国単独で約2千人が捜査隊としてバグダッド周辺から活動を始めているが、これまでのところ証拠となることは発見はなされておらず、さらに捜査を進めているとのことであった。
いずれにしろ率直な物言いで多くの情報を話してくれた。

 CPAとの会談の最後に、ポーランドからCPAに参加しているベルカ議長から秋の支援国会議の準備状況と日本からの支援への強い要請がなされた。

 これまで日本はいわゆる人道支援分野で最大の支援金拠出国であり、国連とNGOを通じて8600万ドル(86億円)を既に拠出していることへの感謝とともに重ねての支援が依頼され、また作成されたばかりの支援リストもまず日本にこの場で手渡したいとの申し入れであった。
あまりの必死な「売り込み」に高村団長以下日本側も答えに窮していたのが印象的であった。

 ベルカ議長の説明によれば、現在のイラクの国家財政は91年度以降の凍結海外資産、オイルフォーフード計画から拠出される資金、或いはフセインの息子達の凍結資産などの収入で2003年後半で60億ドルあるが、既にパイプラインの整備や修復で28億ドル使用しており、財政的にきわめて厳しいとのこと。

 2004年度の予算を120億ドルとしているが、これは石油の産出が従来の産出量250万バレル/日あれば十分にまかなえるので、目下の120−160万バレル/日の産出を何とか従来のレヴェルにまで戻すことを第一としていた。
それ故に治安や電気や水や社会保障分野は後回しにならざる得ないのだろう。

 このポーランドのベルガ議長の話を聞きながら、一国の財政が全て石油に依存している形態が、米国は言うに及ばず、イラクの人々の意識も歪ませるように思えた。
米国は何としてでも石油の管理権を確保してイラクを復興させようとするだろうし、逆にイラクの人々にとっては米国以下連合施政当局に加盟しイラクに来る国は全て石油狙いと思うだろう。
これまでのサダム政権も石油資源によって得た利益を一部国民に社会主義的に還元しながら、一方で独裁体制を可能としてきた。

 資源を持てる国イラクの悲劇を本当に終らせるためには石油のみに頼らない、また十分に自立していける国内の産業育成を真剣に考えてみなくてはならないと思った。
中東にあってはバグダッド周辺の肥沃な大地を持つイラクは、同時に国民の知的レヴェルも学習意欲も高く、技術の習得も早く、科学的探究心も十二分である。
今後のその意味でも農業や工業の発展の可能性は高いだろう。

 CPAの各メンバーの話を聞き終えて、改めて日本がイラクの復興支援のために行うべき根本的支援が少しみえてきたように思った。
それはもちろん自衛隊を派遣して米国とりわけ米軍の後方支援をすることではなく、日本が敗戦国日本として経験した自らの復興の過程を振り返りながら、イラクに多方面からの支援を行っていくことではないだろうか。

 日本の敗戦後の統治形態は、天皇制を残すことによって占領軍の直接的軍事支配ではなくてGHQによる間接統治となり、その中で新たな憲法制定や再軍備のことも取り決められてきた。
そこには当然米国の強い意向が働くとともに、また日本側の指導層の意図も巧妙に組み込まれたであろう。
私たち日本は今間違いなくその戦後を生きている。
天皇制・憲法・軍備をどう考えるか、或いは戦後の中心的価値である民主主義はどう実現されてきたか、むしろ問われているのは日本自身であるとの思いを強くしながら、宿泊先であるパレスチナホテルへ戻った。

8月3日<NGOの皆さんとの懇談会>

 この視察の最後に、イラク国内で活動している日本のNGOの皆さんとの会合が設定されており、鈴木宗男事件以降外務省内にもNGOがしっかりと存在感を増していることの証左のようである。
もちろんNGOの活動は国がどのように認知しようとすまいと、今や紛争・戦争地域の人々の生活を支える実践力で、着実な成果をあげている。

 イラクでも、主にサダム政権下で抑圧を受けたクルドの人々に対してジャパンプラットホームの活動が知られており、また湾岸戦争時に使用された劣化ウラン弾の被害や長引く経済制裁からくる疲弊に対して個人で資金を集め治療薬を届け続ける女性や、劣化ウラン弾被害の実態調査に取り組む市民グループなど様々な活動が行われている。
この戦争の直後からJVC(ジャパンボランティアセンター)の皆さんも活動を再開しており、先の社民党の視察団もお世話になった経緯もある。

 この夜の会合はバグダッド市内であったために、当日の出席団体は当初はJVCのみかと思われたが、南部のバスラ方面で活動している人や、今回の攻撃以前にイラクの高校生達に直接取材してその声をまとめた大学生(赤尾さん)がバグダッド市内のインターネットカフェでこの会合を知り参加してくれたりで、随分といろいろな人達がイラクでの「戦後」にかかわっていることが分かった。

 食事の席で私と中谷さんとの前に座った若い女性は、アメリカの空爆中も人間の楯としてギリギリまでイラクに残り、現在は主にバスラ方面で病院への薬を届けたりしているが、十分な食料もない子ども達の惨状や、今も毎日どこかで爆撃音の聞こえる状況に、いかに自分の生きてきた30年間余りの日本での生活が“平和”であったかをイラクに来てはじめて知ったと話してくれた。
「イラクに日本のような憲法があったらいいのに。
日本ではもう古いかもしれないけれど…」という彼女の言葉に、中谷さんが強く頷いていた。

 JVCの活動は小さいながらもさすがにNGO組織としてのノウハウをしっかりと持っており、病院への医薬品支援の他にも仏NGOが実施しているストリートチルドレンのデイケアセンターへの参加を検討したり、音楽学校のピアノ修理や、絵画を介した子ども達との交流など、社会的・文化的広がりを持っているように思った。

 ちなみに米英によるイラク攻撃に反対し、米英占領下のイラク復興に一定距離を置いているフランス政府も、5月末には首都バグダッドにいち早く「仏文化センター」を開設し、図書館や仏語講座を始め、「草の根の関係強化に取り組みたい」としている。

 日本の「支援」のあり方も、本当に日本の姿が見えるものとするためには、Show the flag や Boots on the ground(自衛隊派遣)などの表層的な考え方や物的・技術的援助がほとんどのプラグマティックな「人道支援」を主とすることから、日本とイラクの文化交流や相互信頼の醸成というより本質的な視点へと変えていく必要があるように思う。
その根本的な発想転換がなされた時に、NGOの活動とGOの支援はより対等で各々の役割を交流し合えるものになるように思った。

 とりあえずイラク復興に関しては、当面自衛隊派遣やCPAに対しての人材派遣という方向をとるのではなく、再開されたイラク大使館を人的にも充実させて、イラクの人々の生活や要求、生の声をもっと広範に集約できる体制を整えるべきであろう。

8月4日<ホテルロビーにて>

 イラクを出発する朝、ホテルのロビーでクウェートテレビの女性レポーターから取材を受けた。
彼女が幾人かにマイクを向けて画像を撮り終えた後、今度は私から彼女に質問をしてみた。
「イラクの現状をどう思いますか?」「日本からの自衛隊派遣をどう思いますか?」と。
彼女は戸惑いながらも、しかしはっきりと「治安も電気もない現在のイラクよりはサダム政権の方がまだ良かった」と断言した。
特に女性は危なくて、一人では外出できない状態が続いており、治安が一向に改善しないことに強い不満を持っていた。
さらに、米国はじめ諸外国はイラクの石油を狙っていると国民の誰もが思っているし、自衛隊については「もうこれ以上外国の軍隊は要らない」「もしもイラクに来たら狙われるわよ」(Be careful)と付け加えた。
この視察の最後の最後に、とても率直なイラク市民の声を聞いたと私は思った。

<視察報告を書き終えて>

 イラクから帰国して2週間余り、国民の税金を使った視察故、きちんと報告をしたいと思い、毎日少しずつメモを整理しながらこれを書き上げた。
その間にもイラクをめぐる情勢は刻々と治安の更なる悪化へと傾いていき、帰国した翌週には私達の宿泊先のホテルが爆撃を受けたことが報じられた。
そしてこれを書き上げる直前には、あのイラクの国連本部への自爆テロが起こった。

 このレポートでもふれたように、米・英の占領支配を一日も早く終らせ、イラク人自身の手になる政府を作ることの必要性を誰よりもはっきりと説いていた国連の特別代表デ・メロ氏がこの自爆テロの犠牲になり亡くなられた。
この事態に至る背景を伝えるためにも、私はこの報告文を敢えてそのままの形でここに載せようと思った。

 デ・メロ氏の率直な発言や責任感の強さに直接ふれることが出来たことは、イラク復興の置かれた状況の困難さを実感させた。
国連特別代表という任の重さと同時に国連の支援活動すら自国の領土や主権を踏みにじるものと思わせかねない米英による占領実態がそこにはあった。
石油資源の存在は、さらにイラクの人々の恨みを深くした。
イスラエルによるパレスチナ占領のような果てしない報復の連鎖に至らせない道を何としてでも早急に国際社会が作り出すこと、それがデ・メロ氏からの宿題である。

 心からその死を悼み、御冥福を祈る。


<参考>イラク特措法特別委員会 訪問日程表

8/2
10:00(ヨルダン時間)国連機にてアンマン・マルカ空港発
12:30(イラク時間) バグダッド国際空港着
13:30  パレスチナホテル着 昼食(於ホテル内カフェテリア)
16:00  バグダッド大学病院視察
18:30  ホテル内で打ち合わせ
19:30  大本大使主催夕食会(於ラマーヤ・レストラン)

8/3
8:00   UNDP着IREP(雇用促進計画)視察へ
9:30   イラク統治評議会メンバーとの会談
10:50  イラク統治評議会国連事務所へ
11:30  デ・メロ国連特別代表との会談
12:30  昼食(於バフー・レストラン)
14:00  CPA(連合暫定施政当局)ブレマー代表との会談
15:00  サンチェスCJTF7司令官との会談
16:00  ベルカCIC議長との会談
19:00  NGO等との夕食兼懇談会(於ホワイトバレス)

8/4
13:03  バグダッド国際空港発(国連機にてアンマンへ)
14:00(ヨルダン時間)マルカ空港着


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